top of page

2085年10月29日月曜日、午前5時30分。 
東京拘置所の廊下は、まだ夜の名残りを引きずっていた。

記録に残る事実が、一点ある。事件当夜、現場から160メートル先のフェンスに設置された赤外線監視カメラに、男の姿は記録されていなかった。映像が存在しないことと、男がそこにいなかったことは、同じではない。捜査報告書はこの点をカメラの死角による不記録と一文で処理し、以降の審理においてその一文は再び問われていない。問われなかった空白は、記録の一部である。

この拘置所の灰色の空間に窓はなく、照明は均一で、影を作らない。

足音だけが、ここが現実であることを教えてくれる。
狭い通路の曲がり角に、椅子が一つ置かれている。安物だが、壊れてはいない。
壊れていないことが重要である。
男は、その椅子に座っている。
手錠はされていない。
逃げる理由も、逃げる先も、逃げる方法も、すでにないからである。
両手は膝の上で固く組まれ、指先がわずかに震えている。
男は死刑囚である——そうだった。
判決は、確定している。
——いや、すでに確定していた。と言うべきなのかもしれない。
本日、この建物の奥で、六人の専門家が集まり、人を殺さない国家について、議論を始める。
その議論の結論次第で、男は処刑されない、かもしれない。
同時に――彼は、彼でなくなるかもしれない。

男は自分の名前を思い浮かべた。
幼い頃、母に呼ばれたときの声。
クラスメイトに坊さんのような名前だとからかわれたときの響き。

裁判長の口から読み上げられた、無機質な文字列。
それらがすべて、数年後には不要な情報になる可能性がある。説明を受けたとき担当官はそう言った。声は丁寧で、感情がなかった。

五年間の訓練。
教育。
職業。
作法。
思想。

合格すれば、社会に戻れる。
——ただし。
失敗すれば、調整が、行われる。
その言葉の意味を、誰も男に具体的には説明しなかった。

男の指先が、また小さく震えた。組んだ手は、ほどかれない。
記憶が消えても、罪は消えるのか。
罪が消えても、罰は終わるのか。
そもそも――罪を犯したのは、誰なのか。男は立ち上がらず、呼ばれるまで、待ち続けた。
会議室の中で、
彼の未来が、
彼の知らない言葉で、
彼の知らない論理によって、
慎重に、丁寧に、解体されていくのだろうか。

男は、瞼を閉じた。
——もし、彼らが生きていいと言ったなら。
——もし、彼らが生き直せと言ったなら。
そのとき、生き直すのは、いったい誰なのだろうか。
独房の照明は、何も答えなかった。

ある日のこと、音が先にあった。
金属が床に落ちる、乾いた音。
それが何だったのか、男は思い出せない。
次に、光。
白い。
夜のはずなのに、異様に白い。
懐中電灯かサーチライトか、あるいは——。
「動くな」
声がした。低く、命令形だった。
自分の声ではない。それだけは、はっきりしている。
そして——もうひとつの足音があった。
それは、男の靴底の音ではなかった。
厚底の、重い靴だった。
その足音は、男の後方から来て、男とは別の方向へ消えた。
その時間帯のその位置を、カメラは記録していなかった。
記録できなかったのか、記録されなかったのか——それも、男には分からない。
証言調書のどこにも、この足音は記載されていない。
男が述べたのか、述べなかったのか——それも、男には分からない。手が、熱を持っていた。
何かを握っていた感触がある。
だが、重さだけが残り、形が思い出せない。
血の匂いがした——色は覚えていない。
赤だったのかどうかさえ、曖昧になっている。
その匂いは、鉄のようで、泥水のようで、ひどく現実的だった。

「違う!」
その言葉が、口から出たのか、頭の中だけだったのか分からない。
その直後、誰かがすすり泣いていた。
泣き声は、壁の向こうへ遠ざかるように聞こえて消えた。
泣き声が遠ざかる直前に、扉の蝶番が軋む音がした。
誰かが、部屋を出た。
女ではなかった。
ただし——そのことを、No.8049は誰にも言えなかった。
言葉があっても、信じてもらえないと判断したのか。
その判断さえ、今となっては確かではない。
その声の主が、被害者だったのか、自分だったのか、あるいは——。回想は、そこで途切れた。

No.8049は、ゆっくりと瞼を開いた。
東京拘置所の長い廊下。
同じ照明。
同じ椅子。
指先は、まだかすかに震えている。
それ以上のことは、外からは分からない。

——もし、薬物か機械か何かで脳をリセットされたら。
男の曖昧な記憶も、この違和感も、すべて消えるのだろう。
それは、救いなのか。それとも、真実からの永久追放なのか。

2083年、日本政府は死刑制度廃止を決定した。
代替刑の答えは、まだ出ていなかった。
先行する18カ国は、それぞれの「答え」をすでに持っていた。
しかし国際人権団体は、そのすべてに同じ言葉を添えていた——人権侵害の疑い、ありと。

最初の死刑相当判決者、No.8049の処遇を決めるため、専門家委員会が招集された。東京拘置所の奥、窓のない会議室で、学者五人、技術者一人が集まる。
前月の臨時閣議において、死刑廃止特例措置に関する法的枠組みが確認されていた。本委員会の答申は、その枠組みの下、内閣府行政令により法的拘束力を持つものとして位置づけられている。通常の立法プロセスを経ることなく、代替刑制度を試行的に適用することを、国家はすでに選択していた。——六人の専門家は、そのことを知っていた。知っていて、なお、この会議に参画することになっている。

世界が見守る中で――日本が示す答えは、新しい時代の規範となるかもしれない。あるいは——新しい形の構造的暴力の始まりになるかもしれない。

それは、これまでも、そうだったように。

bottom of page